お遍路さんといえば、必ずでてくる”弘法大師”さま。 ご存じの方が多いと思いますが、この弘法大師とは、真言宗の開祖”空海”の諡号(しごう ※1)です。
空海(弘法大師)は、宝亀5年(774)護岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)で、讃岐国の郡司の父 佐伯直田公(さえき の たぎみ)の次男として生まれました。 俗名(※2)は 佐伯 眞魚(さえき の まお)といい、幼少の頃から大変賢い子どもだったと言われています。
延暦12年(793)空海20歳のとき、和泉国(現在の大阪府)槙尾山寺で剃髪して出家。 はじめは教海、そして如空、やがて空海と名乗
ります。
”空海”の名の由来は、四国の室戸岬町にある御蔵洞(みくろど)という洞窟で、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の修行をしていた時、洞窟の中で空海の目に映るものは、空と海だけであり、それに感銘し”空海”と名乗ったと伝わっています。 機会がおありでしたら、空海の見た景色を、皆さんの目でご覧下さい。 時代は移り変われど、空海の見た景色と思いは、そこに変わらずあるかもしれません。
空海は、自然の中での修行をしながら、寺院で学び、延暦23(804)31歳の時に、私費で留学生として中国へ渡りました。(時を同じくして、最澄も国費での留学生として中国へ渡りました)
中国で空海は、まず梵語を勉強。仏教・儒教・道教をはじめ、キリスト教やマニ教なども勉強したといわれています。そして、青龍寺の恵果(※3)に密教を伝授して頂いたのです。
延暦24(805)暮れに恵果(60歳)が亡くなると、翌年、空海は留学の予定を切り上げて帰国。 高野山真言宗は、この翌年、空海によって開かれたのが、はじまりとされています。
その後空海は、中国で学んだ知識を活かし、土木工事の指揮をはじめ、学校を設立するなど、尽力しました。
四国八十八か所は、以前の、四国八十八か所はいつできたの?でもご紹介しましたように、弘仁6年(815)空海42歳の時に、開創されたと伝えられています。(詳しくは” 03 ”をご覧ください)
また空海は、書道家としても才能を発揮し、後に嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆と呼ばれることになりました。
そんな空海にも、最期のときが訪れます。承和2年(835)3月21日金剛定(こんごうじょう)に入定(にゅうじょう)されました。 空海には、史実よりも伝承のほうが多い為、入定後の諸国行脚説や火葬説など沢山語られています。
天安元年(857)、文徳天皇により、空海は”大僧正”の号を頂き、
更に延喜21年(921)、醍醐天皇により”弘法大師”の諡号を贈られました。
※1 諡号:僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名
※2 俗名:出家前や生前の俗界での名
※3 恵果:密教の大きな二つの流れ、大日経系と金剛頂経系
を共に継承した、中国密教の頂点に立つ僧 |